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「黙示録」に関する大きな間違いについて

Sub Titleー 黙示録が「面白い書」であると言える理由ー

「黙示録」という書名について
一般にもっとも名が通っているので、私も通常「黙示録」と記しますが、しかしどう考えても、ギリシャ語「アポカリプシス」を「黙示」と訳すのは、誤訳と言わざるを得ません。

長年の間に定着してしまった「黙示録」ですが、いつ頃誰が[ἀποκάλυψις]に[黙示」を当てたのかは知りませんが、本来の語の意味のまったく反対の意味の語であることに、私はどうも違和感というか、胃の腑に落ちない不快感のような感覚をいつも覚えます。

ギリシャ語「アポカリプシス」[ἀποκάλυψις]は聖書中に全部で18箇所に見出されます。
黙示録にただ1箇所ある1:1は、さすがに書名と同じく「黙示」と訳されていますがその語の殆どは「啓示」と訳されています。

以下に引用したのは「新改訳聖書」からですが、
「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」ルカ2:32
「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。ローマ8:18
その他主な「啓示」という訳:
ローマ16:25 / Ⅱコリント12:1,7 / ガラテヤ1:12;2:2 / エペソ1:17;3:3
ローマ8:18では「啓示」ですが、続く19の同じ語はこのように訳されています。

「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れ(アポカリプシス)を待ち望んでいるのです。」ローマ8:19

同様の訳は次の聖句にも見られます。
「…神の正しいさばきの現れる(アポカリプシス)日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」ローマ2:5
Ⅱテサロニケ1:7 /Ⅰペテロ1:7,13 /Ⅰペテロ1:7 も同様

黙したまま暗に示す、どころか、はっきりと出現する。白日の下にさらけ出す。それが「アポカリプシス」の意味です。

つまり、ほとんど書名だけが特別、もしくは異例で、本来正しく訳そうとすると現代の翻訳者が「アポカリプシス」の訳語として選んでいるのは、「啓示」という単語だということが分かります。

「黙示録」は今でこそ、市民権を得てしまったので、ほとんどの辞書でも、「黙示」の語の意味として、『隠された真理を示すこと。特に、キリスト教で、神が人意を越えた真理や神意などを示すこと。啓示。』という説明を載せています。

しかしこれは「黙示」(一般的な日本語としての汎用的な単語)の意味ではなく、あくまで、「黙示録」(聖書巻末の書名に、そういうつもりでその語を当てたゆえに、定着した語)に関するもので、言わば、ブーメランのようにUターンして帰ってきた特殊な意味付けであり、逆輸入のような説明です。

本来の日本語の「黙示」は読んで字のごとし『言葉ではなく暗黙のうちに意思や考えを表すこと。』という意味です。
明らかな意思表示はなされていないが、その時の状況などによって、間接的に意思表示と見なされる(主張できる)ことを日本語で「黙示」と表現します。

例えば似た言葉に【黙認】というのがありますが、これは『公然とではなく、暗黙のうちに許可すること。知らぬふりをして見逃がすこと。』
という意味です。

逆に「黙示」に関連した語として【明示】というのがありますが、「はっきりと意思表示をする」「意思や物事を明らかに示すこと」
という意味です。

「明示」の反義語とされている語の一つに【暗示】という語がありますが、その意味として挙げられている説明は「黙示」と似たようなニュアンスです。

① 直接的にはっきりと示すのではなく、それとなく分かるように示すこと。また、その行為や物。 仄めかす 、 臭わせる
② 相手が信じ込むように、それとなくしむけること。

「暗示」と「黙示」の違いは、暗示の方は、意思表示の方法論的なものですが、「黙示」の場合は、当人ではなく、他者が、「意思表示とみなした」「そのつもりで受け取った」というもので、「暗示」に比べて、発信者の意図は不明、もしくは、より不確かというスタンスです。

また、別の表現で例えると「明示」と「黙示」の違いは、「直接証拠」と「間接証拠(情況証拠・状況証拠)」の違いと同じと言えるでしょう。

分かりやすく、身近な例で言えば、
「ダメです!」とか「いいよ。行ってきなさい」というのが明示です。
「本当にそれでいいのか自分でよく考えてみなさい」
「車とか怪しい人も多いから、いつも気をつけなきゃダメだよ」というのが「暗示」。
「渋い顔をしてこっちを睨んでるようだった」「笑顔で見送ってくれてるように見えた」などが黙示です。
「黙示」とは、一言も言葉を発していなくても、否定/肯定の意思表示がなされたとみなされる。ということです。
一言でも「ことば」を発したら、もはや「黙示」とは言わないないと言って差し支えないでしょう。

冒頭に引用した辞書の中に「黙示」の意味の一つとして「啓示」が挙げられていますが、【啓示】の語の意味については、このように示されています。

【啓示】とは
1 よくわかるようにあらわし示すこと。
2 人間の力では知ることのできない宗教的真理を、神が神自身または天使など超自然的存在を介して人間へ伝達すること。天啓。「神の啓示」

「表し示す」「伝達する」という意思があきらかなものです。
黙示と啓示は、全く異なる語で、どちらかと言えば反義語の範疇に入るものです。
これも「黙示録」という誤訳のゆえの弊害でしょう。


というわけで、ヨハネの記した巻末の書は、果たして「黙示」でしょうか。
本当に、キリストからの明確な「意思表示」はなかったのでしょうか。
それはヨハネが「キリストは、何一つはっきりと言葉は発しなかったが、きっとこういう考えを伝えようとしたに違いないとみなした」ことを記録したものですか?

仮にもしそうであるなら、それを「ヨハネによる黙示録」と呼んで差し支えないでしょう。しかし、聖句そのものは何と記しているでしょうか。

「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」-ヨハネ1:1-3


意図が明らかで、言葉をもって、明確になされた意思表示(明示)の内容が、自分には難しくてよく解らなかったのゆえに、それは明示ではなく「黙示」になってしまうなどということは決してはありません。

この記録は、確かに代弁者はみ使いですが、そのメッセージは神からキリストに「言葉」によって、「すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったもの」を記したものです。

「イエス・キリスト」は神の「言葉」であり、神は、ご自分の計画をすべて必ず、予め「言葉」を通して伝える「有言実行」の神です。

「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」-アモス 3:7
「先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」イザヤ42:9

ですから、神の言葉聖書の、そして、一層の感慨を込めて編纂された巻末の書が「黙示」などと言うことはありえないのです。
それは、「現す」ための書であり、「暴く」ための書なのです。
それは「明らかにする」ための書であり、「啓く(ひらく)」書物なのです。

確かに、文面は、象徴的な表現や、比喩、謎めいた幻の描写が多く見られますので、難解であることは確かです。
しかし、その書は、神が人類に表明された「明示」の書です。

ですから、聖書巻末の書を「黙示」と呼ぶのは、甚だしい勘違い、見当違いなのは明らかですから、的確な書名として、「アポカリプシス」の意味を反映した「啓示の書」もしくは「啓示録」というのがふさわしいと思うのですが。

ちなみ、唐突に、しかも余談ですが、「面白い」ということばの語源をご存知でしょうか。
「面」は目の前という意味です。それで、目の前が白くなる(頭が真っ白、の正反対)つまり明るくなる、明らかになるという意味です。

つまり、闇夜から、夜明けにかけて次第に視界がクリアになってゆくように、物事がはっきりと見えてくる。
その様子を「おもしろき」ことと表現したわけです。
今まで見えていなかったものが、くっきりと見えてくる。知らなかったこと、解らなかったことが、段々と理解できるようになる。
これが「面白い」という日本語の本来の意味です。
「面白くする」の本来の意味を現代語で現わすと「明らかにする」となります。
つまり「アポカリプス」は古い日本語(和語)で表すと「面白す」となります。

この本来の意味で、神のとこしえの目的を明らかにする聖書巻末の書は歴史上、世界一「面白い」重要な書物なのです。

そういうわけで「黙示録」の目的、その書の特性をもっともふさわしく言い現す日本語の名称は「ヨハネによる神からの面白い書」が最高だと思う次第です。


さて、ここまで辛抱強く、この文章にお付き合い頂いた方の中には、「だから、今更どうなんだ。日本ではそれで通ってるんだから、別にそれでいいじゃん。」とお感じの方も少なくないかもしれません。

ここまでは、まあ個人的は違和感の吐露に過ぎないんですが、それでも、「言われてみれば確かにそうだ」と、多少でも思っていただけたなら、この記事を掲載しようと思った私の本当の思いを察していただけるかも知れません。

それは、「何の不思議もなく、違和感も感じることなく、伝統的に、受け入れられ、そう見做されていることのうち、実は、間違いや勘違いが少なくない。という事実に思いを向けて見る必要がある。ということです。

書名の一つなどは、たいして大きな問題でもありませんが、「聖書」「キリスト教」という言葉から連想されるイメージ、あるいは、クリスチャンであるなら、自分が関わって来た教団、教派から教わった教理、知識などは、「何の不思議もなく、違和感も感じることなく、伝統的に、受け入れられ、そう見做されていることのうち、実は、間違いや勘違いが少なくない。という事実に思いを向けて見る必要がある。

ということを力説したいからです。

例えば、「ハルマゲドン」「滅び」「天国」その他何であれ、「よく知られた解釈」もしくは「確立された聖書理解」と思っていることと聖書そのものが示していることに矛盾や隔たりがあるものが少なくないということです。


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tag : 預言 黙示録 啓示 暴露 ヨハネ 新訳 翻訳 聖書 書名

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